イタチのオヤジの日常

カテゴリ: 小豆島・大島紀行ー放哉の足跡

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高松港で官有船を降り、さすがに島で暑い日中歩き回った疲労と空腹で、手近な「手打ちうどん」の店へ飛び込み、「セルフ」でややとまどいましたが、「ぶっかけ」にインゲンのテンプラを載せた奴に、ビールを注文、渇きを癒して一気に掻き込みました。
 一息ついて、2時半。このまま空港へ行くのではもったいないと、琴電の「高松築港」駅へ行き、琴平行きの電車で栗林公園を訪ねることにしました。
 程なくやってきた電車、塗装は変わっていますが、車両の形式は、明らかに東京の京浜急行の電車で、オッ1こんなところにいたのか!という感じです。3つ目の栗林公園駅で電車をおり、少し歩いて栗林公園へ。間近に聳える「紫雲山」、池を配し、高低を巧みにつけた、天下の名園。
 しかし、あつい!炎暑に焙られ、池のハスの花も、心なしか元気がないようでした。
 小一時間園内で過ごし、公園前のバス停から、空港行きのリムジンバスを捕まえ、16時過ぎには高松空港へのたどりつきました。
 前日の午前9時20分にこの空港へ着いて、約31時間の間に、小豆島に放哉の縁を尋ね、短時間とはいえ海で泳ぎ、再度、高松港を経て大島青松園を訪問、そして、とどめに炎暑の栗林公園。長年、心にかかっていたところへ足を運んだ、その意味では念願のかなった、盛りだくさんで、疲労もタップリな夏の紀行でした。

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いったん大島会館に戻って、解散となってから、園内をひとめぐりしてみました。貞明皇太后の「つれづれの友ともなりて・・・」の歌碑、昭和天皇が昭和20年代、全国巡幸の途上、海上から大島を視察されたときの御製を彫ったモニュメント等がありました。なによりも、遺骨となっても多くの場合、故郷へ帰れない。そのための納骨堂や、代表的な各種の宗教の施設(教会など)、四国霊場四十八カ所を表した石仏群など、「生涯孤島」の厳しさを思い知らされるようなものが目に付きました。
 朝日新聞高松支局の三宅記者(だったと記憶)が連載した青松園のルポルタージュ記事をもとにした「差別者のボクに捧げる」を読み、衝撃を受けたのは、確か社会人になって間もないころでした。この本で指摘されていた問題点は、約30年を経て入所者の高齢化に伴い、より深刻さを増しているように感じます。
 島の東海岸に沿って立ち並ぶ不自由者棟のあたり、およそ人気もなく、波の音が響くだけでした。
 島に滞在すること約4時間、13時25分のフネで、再び高松港へ戻りました。

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18日、早々と朝飯を済ませ、お世話になった「ホテル・ニューポート」をチェックアウトし、高速船乗り場へ。8時5分の高松港行き高速艇の客となりました。月曜の朝、往航時と打って変わって、7~8割方席は埋まっています。改めて、小豆島は高松市の通勤圏なのだと痛感。高松港で高速艇を降り、同じ桟橋の待合室で、待つことしばし。やがて、大島青松園の官有船「せいしょう」が姿を現し、多数の乗客と共に乗り込みました。
 約30分で「せいしょう」は、ハンセン病療養所のある大島に到着しました。
 桟橋で、国立療養所・大島青松園の福祉室の職員の方が出迎えてくれました。ファックスで見学申し込みをした者である旨伝えると、大口の団体(高松市の小学校教員さん、約40人。奈良県の人権関係団体の方約10名)と共に行動するよう指示されました。
 大島は、白砂青松、桟橋から続く路の両側には、歳を経た老松の翠が、なお鮮やかです。
 まず、一行は講堂(「大島会館」)に通され、園長(ドクターです。)と、入所者代表の方(自治会長さん)のお話をうかがいました。
 園長のお話は、医学的な点を中心に、ハンセン病の社会的な意味を交えて、分かりやすくお話いただきました。プロミン登場で可治の病となったこと、結核に訊く薬、例えば「リファンピシン」が良く効き、投薬して数日で菌が検出されなくなるほどの効果があること。ただし、こうした化学療法が発達する前に、知覚神経・運動神経をおかされた結果としての「二次障害」自体を元へ戻すことは困難であること等のお話がありました。現在124名の入所者の方は平均年齢が78歳を越えるなど、高齢化が進んでおり、平成13年の熊本地裁判決・国の控訴断念後も、こうした高齢化のためもあって、社会復帰は進んでいないとのことでした。しかしながら、高松市始め香川県の中核医療機関との連携は進んでおり、入所者の方が、普通に医療を受けられるようになった点は、前進と評価されていました。
 自治会長のお話は、ご自身が昭和24年(まさにプロミンが普及し始めたころ)、青松園に入所し、園内で小中学生期を過ごし、長島愛生園に設けられていた定時制高校に通学するため、長島で4年間を過ごされ、光田健輔園長の最晩年を直接知っているとのことでした。光田医師のハンセン病の医療にかかる考え方について、賛否両方の考え方があることを紹介され、その上で、ご自身の考え方としての光田説批判と、予防法廃止も、控訴断念も、「遅すぎた」と悔しそうに仰っていたのが印象的でした。
 お二人の講話の後、園内の納骨堂、遺灰を納める「風の舞」などを職員の方にご案内いただきました。
 
 

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この日の宿は、土庄港のフェリーターミナルのすぐ前の「ホテル・ニューポート」さん。
お世話になりました。自転車を無料で貸していただき、大変助かりました。バスや徒歩では、とてもではないけれど、放哉の足跡を辿った上に、海水浴を強行して半日で港へ戻るなど、到底出来ませんでした。
もともと、「楽天トラベル」で宿とフライト、パックで予約したのですが、利用者の方のコメントどおり、部屋数も少ない、客の迎えから、食事の手配、チェックアウトまで中年の「おかみさん」という雰囲気の方が取り仕切っている、フレンドリーな宿でした。部屋はツインをシングルユースで、お値段もリーズナブルでした。チェックアウト時には、お土産として素麺か、モロミかどちらか選択してお持ち帰りくださいといわれ、当方、恐縮することしきり。
 南郷庵で放哉を最後まで看取った漁師夫妻、南堀シゲさんを髣髴とさせる方でした。

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放哉記念館を後に、まだ、午後2時を回ったくらいですので、自転車を駆って西へ。それこそ、西の外れの「千軒海岸」までと思いましたが、途中、結構アップダウンがあり、その遥か手前の「鹿島海岸海水浴場」のあたりでダウン。適当な海の家に寄って、こういうこともあろうと持参の海パンに着替え、海に入りました。
考えてみれば、海水浴など、20年以上していません。久しぶりの海水は、しょっぱかった。
ところが、ふと見ると、透明なクラゲがすぐ目の前を漂っています。ここで刺されては、明日の行動にさわりが出るので、海岸に引き上げ。
再度、着替えて、海の家で、缶ビールをしみじみ飲んでいるうちに眠気を催し、暫しまどろみました。
 これまで、文字で読んで想像していた放哉が私生活を破滅させ尽くして句を生み出した環境の80年後の有様を目の当たりにしました。想像通りだったものも、全く異なっていたものもありました。
 ただ、結局のところは、私には、依然として放哉の実像がつかみ切れない。わからない。それもそのはず、一次資料を通じてその内心に幾分でも迫る作業をしていないからなのでしょう。

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西光寺から放哉記念館、すなわち放哉の終焉の地である「南郷庵」までは、すぐです。
ところが、なんという不幸か、この日、地元の婦人のサークル?がお茶会をやっている!それも、正式のお茶会は終わって、後片付けという名の井戸端会議となっており、うるさくて閉口しました。
ここも、室内撮影禁止でした。放哉が「入庵雑記」に記していた通りの間取り、八畳間には半間四方の窓があり、障子がはまっています。方角は東で?この窓からは、彼の大好きな海が見えた(今は、家が立ち並んで、見えなくなっています。)。
「障子あけて置く 海も暮れきる」は、まさにこの窓から生まれたのでしょう。この句について、井泉水がいかに添削してこの有名な句が生まれたかは、あえて申しますまい。
 一向におさまらないおしゃべりに肩をすくめ、放哉の墓を訪ねることにしました。案内に沿って、墓地のの奥のほうへ上っていくと、実に小さな、目立たないお墓がありました。
前面には、「大空放哉居士墓」とのみ。反対の面には、故人の紹介の短文「妻ト財ヲ捨テ・・・」というくだりが、改めて印象に残りました。残る面に、「大正十五年四月七日入寂」とのみ。

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腹もいっぱいになりました。天気はすっかり良くなり、陽射しは強烈です。自転車をこいで、地図を頼りに「西光寺」を訪ねました。ただ、正直なところ、朱の色が余りに鮮やかな山門に、違和感を憶えました。境内には、おそらく放哉も眺めたであろう大銀杏の樹が今も青々とした葉を茂らせています。本堂に参拝、ただ、誰もおられません。料金箱に硬貨を入れ、蠟燭を一本差し上げました。今のご住職はなんとおっしゃるのか、宥玄師とのご関係は、などなどお尋ねしてみたかったのですが。
本堂の右手に続く石段を上っていくと、鐘楼と、三重の?の塔があり、ここからは海が見下ろせます。
ただ、勝手を申せば、塔の朱が、古びていない!新しすぎる。
気を取り直すように、勝手ながら、鐘を、ひとつ、撞かせていただきました。
「鐘撞いて去る鐘の余韻のなか」だったかな・・・?
 西光寺を後に、地図を頼りに行くと、「余島米穀店」が、確かに現存していました。小説「海も暮れきる」のなかでは、南郷庵に入ることが決まったあと、放哉はこの店でソバ粉を求めようとしたが時期でないため置いておらず、小麦粉を買った。そして、入庵祝いにビールを店先で飲んだことになっています。私も、暑さしのぎにビールを、とも思いましたが、店先には人影がなく、断念して、南郷庵・放哉記念館に向かいました。

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まずは、今日の宿泊予定の「ホテル・ニューポート」さんへ。チェックインには早いのですが、荷物を預かってもらい、おまけに自転車を貸していただきました(ありがたいことに、無料です!)。早速、土庄の港を後に、旧・渕崎村、今は中央病院の隣、図書館に付設された「尾崎放哉資料館」へ。図書館で、カウンターの職員の方に資料館の観覧を希望すると、土蔵のような資料館の鍵を開け、中を見せていただくことが出来ました。
撮影禁止なのが、本当に残念でした。有名な「咳をしても一人」ほかの句稿の数々。井泉水(「井師」として、登場します。)への書簡など。放哉が手紙でよく使う「苛々」という文字を眺めたときの、妙な「懐かしさ」のような不思議な感情。
鍵を開けてくれた女性職員さんの知り合いらしい、男の子が展示を見入っているオジサンを不思議に思ったのか、「これってなあに?」「放哉さんて、だあれ?」と尋ねてきます。聞けば、小学校3年生とか。
「あと、30年か40年もしたら、きっと君にも、この資料がどんなに貴重なものか分かるよ」と、思わず語りかけていました。
 資料館をあとに、世界一狭い海峡としてギネス登録済みだそうですが、土庄(渕崎)海峡沿いに、井上一二(文九郎)氏の旧宅跡を訪ねました。
吉村昭先生の小説「海も暮れきる」でも、一二氏と放哉の関係は微妙なものとして描かれていましたが、古田重駕氏の近著「こぼれ放哉」では、放哉の酒癖を嫌い、結核発病を執拗に疑い、その死後でさえ感染の危険を理由に放哉の希望であったこの地への埋葬(土葬)に異を唱える人物として描かれています。小説は小説、真相はわかりません。現在は、一二氏の旧宅の跡には、僅かに観音堂と、島でも最古ではないかとされるオリーブの樹が残っているだけでした。
 ここまできて、時計は12時を回り、さすがに腹が空きました。大規模なショッピングセンター街の一画にある手打ちうどん屋で「かきあげぶっかけ」を注文。スダチの酸味が、さわやかでした。

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8月17日(日)、朝8時05分の全日空機で羽田から高松へ飛びました。空港から「琴電バス」のエアポート・リムジンでJR高松駅へ。桟橋まで歩いて、10時45分の「四国フェリー」に乗船。予想に反して、フネはがらがら、冷房が効きすぎるくらい効いています。天候が心配でしたが、陽射しも覗き、海面はなぎで、最高時速65舛旅眤船は快適に飛ばします。30分で、小豆島・土庄港に到着。約25年ぶりに、再びこの島の土を踏みました。
中央桟橋のすぐ側に、「尾崎放哉 上陸の地」の記念碑が建っています。
「眼の前魚が飛んで見せる島の夕陽に来て居る」の句を記したものが、新旧二つ。古いほうは、西光寺の僧で、放哉を庇護した住職・杉本宥玄師(玄々子)の弟子である玄妙さんの筆になるものです。
尾崎放哉の終焉の地であるこの島を訪ねてみたい、という思いは年々強まり、それでいてなかなか決意がつかぬまま馬齢を重ね、何時しか放哉の没年を超えてしまいました。ついに50歳の齢を数えるに至り、決意して夏休みを利用して、はるばるこの島にやってきました。

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